今日、
月刊『文藝春秋』ゲラ入手。
明確な間違い最低2か所確認。
しかしながら、まだ、出版、店頭はおろか
物流ルートに乗ってもいない。
印刷物の間違いを
あらかじめ指摘する
などという
世界出版史上にもないことは、
やってみたいですが、控えましょう。
「ゲラ」
この問題について考えてみたいのです。
原稿→印刷所→出版社への確認のための戻し。
この仮の納入品、出版業界でいわれるところの
「ゲラ」ですね。
筆者の原稿は、「ゲラ」の段階まで行きながら
なぜか、文藝春秋側からの一方的印刷中止通告。
そんなことは、今、どうでもいい。
私にとっての「事件」を遡ること1年半。
98年の今日、
月刊『文藝春秋』3月号。
この「ゲラ」が出ました。
私たちは、
この調書に出てくる男の子の世界を
思い出さなければいけない。
Aではなく、淳君。
30ページにわたり、克明に彼の最期が記されています。
その詳細をクリックで読めるようにすべきか。
私は、明確にそれをやめることにした。
理由も明確に。単純に。
やってはいけないことだからです。
淳君、1986年
2月10日
神戸市須磨区に生まれる。
私も『チョコレート坂』辺りで、
この可憐この上ない男の子と
すれ違ったことがあるのかと思うと
まさに、胸塞ぐ思いです。
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事件の経過
(平成9年)
2月10日 神戸市須磨区中落合で小学6年生の女児2人が鈍器で殴
られる。
1人が1週間のけが。
昨年の二月十日に須磨地区で起きた女児殴打事件は、その後つづいたA少年による一連の凶悪事件の幕開けとなりました。
そして、この日は奇しくも私たちの次男、淳の誕生日でもありました。
その殴打事件があった昨年のその日。妻が淳の誕生日を祝って淳が好きな料理を作り、私たちは心からのプレゼントを淳に贈って、その夜は家族全員で楽しく過ごしました。
当時、この事件のことは、なぜか公にされなかったので、もちろん、私たちは何も知りませんでした。
3月16日 須磨区竜が台で、小学4年生の女児が頭を殴られ、1週
間後に死亡。
小学3年生の女児が腹部を刺され、2週間のけが。
続いて三月十六日に起きたのが、あの通り魔事件でした。この時は新聞やテレビなどで事件のことを知りました。
事件の現場が家の目と鼻の先で、あまりにも近くだったので、私は、
「恐ろしいことが起きてるんやなあ。敬も淳も気をつけなあかんで」
と、妻もまじえて話をしたものでした。
そして、私たちの運命を大きく変えたあの五月二十四日がやってきたのでした。
3月17日 付近で集団登校始まる。
3月24日 兵庫県警が須磨署に連続通り魔事件の捜査本部を設置
5月24日 須磨区の小学6年生の男子 土師 淳君が殺害さる。
10月17日 土師 守さん、メッセージを公表。

土師守さんのコメント
このたび、犯人の少年に対する保護処分が決定されました。形の上では、一応最終的な判断が示されましたので、この事件の社会的反響も考えますと、この機会に私どもの何らかのコメントをした方がよいのではないかと思い、弁護士とも相談のうえ、筆をとりました。
まず最初に今回の決定に対してですが、私たち被害者の心情というものを除いて、現在の少年法に照らして考えた場合、妥当な決定であり、公表された内容を見ますと井垣裁判官の誠意にあふれた対応や、また苦労されたであろうことは非常によく理解できました。
しかしながら、それは現在の法律に沿って理性的に判断した場合のことです。私たち被害者の本当にやりきれない真情を想像して下さい。犯人の少年は、純粋で疑うことを知らない私たちの子供を殺害しただけでは足らず、さらに酷いことをしたのです。そのように残酷な犯罪を犯しながら、犯人が十四歳の少年という理由だけで、犯した罪に見合う罰を受けることもなく、医療少年院にしばらくの間入所した後、前科がつくこともなく、また一般社会に平然と戻ってくるのです。
この事件に相前後して、同様の残酷な事件が発生していますが、これらの事件の犯人は精神的には幼稚でも、ただ実年齢が二十歳を超えているということで実名も出ますし、また例え犯人に人格的な障害が存在しても責任能力があると判断されれば、それなりの罰も受けるだろうと思われます。私は少年法の精神は尊重すべきであると考えています。しかし事件によっては、加害者ばかりを優先した審判ではなく、被害者の心情をより考慮した審判がなされてもよいのではないかと思います。
以前から思っていたのですが、法律により犯人がその人権およびプライバシーを極めて手厚く保護されているのに対し、被害者およびその家族の人権やプライバシーは全く保護されていません。今回の事件においても、報道の名のもとに、悲しみのどん底に突き落とされた私たち家族の人権やプライバシーは蹂躙され、通常の生活さえもままならない状況が長く続きました。その上に、私たちの心に受けた深い傷を、さらに広げようとでもするかのような心ない報道も多数みられました。
私たち家族は、最近やっと少し落ち着きを取り戻してきてはいますが、子供を失った深い悲しみからはいまだに立ち直ることができない状態です。マスコミの方々には、私たち家族の心情を察して頂き、そっとしておいてほしいと、切にお願い致します。
平成9年10月17日
土師 守
それから、年も開けて一九九八年二月九日。世間の人たちがやっとこの事件を忘れはじめようとした頃、突然、予想もつかない出来事が起きました。
しかも、それは私たちの神経をずたずたにするような「事件」でした。
生きていれば、淳の十二歳の誕生日。その前日だったので、特に私には忘れられない日となりました。
この日の夕方四時を回った頃でした。
兵庫県警捜査一課の刑事さんから、携帯電話に電話が入りました。
「明日発売の文藝春秋と日刊ゲンダイになにか載るらしいですよ。気いつけとってください」
そんな内容でした。
また、マスコミが何かやってくる。
〈遺族の心情を考慮すると問題だ。興味本位で読まれるのはつらい〉
井関弁護士がマスコミに出してくれたこのコメントがその時の私の気持ちを正直に代弁してくれています。
あの供述調書をわざわざ出す必要がいったいどこにあったのか、私にはどうしても理解できませんでした。
あんな酷いめにあわされた上に、被害者をさらにこんな晒し者にするようなやり方には納得できるはずもありませんでした。
翌日の十日は、淳の十二歳の誕生日となるはずの日でした。
私はこの日、午後から休みをとり、妻と一緒に淳への誕生日プレゼントを買いに出かけました。
(平成10年)
2月10日 月刊『文藝春秋』調書掲載
西神にあるショッピングセンターで、淳の好きだった『レゴ』のブロックを買いました。
夕方には、警察から電話がありました。
「マスコミとかは来てませんか?」
供述調書の騒動で心配した刑事さんからのものでした。
そのあと、淳の好きな食べ物を妻がいろいろとつくって仏壇に供えてやり、家族だけで淳の誕生日を過ごしました。一年前は私の両親をまじえた六人で淳の誕生日を祝ったものでしたが、この日は本当に静かな日となりました。供述調書のことは、家族の間でひとことも話題になりませんでした。
多分、それぞれがその話を避けていたのだと思います。
やりきれない、そして静かな淳の十二歳の誕生日でした。
(新潮社刊 土師 守著『淳』より)

平尾隆弘『文藝春秋』編集長
私と話したとき、
「印刷前に、
淳君の誕生日と発売日が重なることは、
分かっていた」
そうおっしゃいましたね。
神戸
市立外国語大学出身の貴方は、
今、何をお感じか?
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淳君の御父様
私が、今、
貴方様の他の人間が触れてはいけない世界に私という他人が触れております。
申し訳一切できようはずもございません。
お詫びの言葉が見つかりません。
そして、
淳君
淳君
俺を
許してくれ。
君の写真を
今、ここにアップロードする
この卑劣な俺を
許してくれ。
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