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Tears

次は、
月刊『FEATURE』
99年6月号に載った
YOSHIKI
のインタビューです。

(インタビュアー・小松成美氏)


Y ……なんでしょうかね。僕ね……父が33歳で亡くなってるんですよ。
――そうだったんですか……。
Y 父は……自ら命を絶ったんですよ。僕、「Tears」って曲で一回、詞を書いたんですけど、あれは父に向けて書いた詞だったんです。最後に「いつか僕は、あなたよりも歳を取るだろう」っていう。不思議じゃないですか、僕、父親よりも歳上になっちゃうんですよ。そういうことに関して、いろいろと思うと呆然としますね。偶然、hideとも同い歳だったんですけどね、僕の父親と。
――33歳で……。
Y それで、ちょっと考えさせられていた。昔から、そのことに対して考えさせられていたんですよ。ずっと、子供のときから。僕は父親が死んだとき10歳だった。それで、単純に「30の自分なんか見たくない」って言ってたのは、父親よりも年取ってる自分なんて想像もつかないからなんですよね。やっぱり、父親っていうのは、ずっと20いくつも歳が上のはずだったんだから。その歳を抜いちゃうっていう感覚が、どういうもんなんだろうなって、考えつづけていたんです。父よりも歳上になっちゃうって、何だか不思議な状況ですね。
僕の中には、いつもそのことに対する思いがあったんじゃないですかね。きっと。これまで、このことにはあまり触れなかったですけど。今は、強く考えますから。
――今、その33歳を生きているYOSHIKIさんは、やっぱり強いですよ。
Y 人前では強いですよね。

33歳
この年齢から、私は
89年11月のことを
思い出さざるをえませんでした。

坂本 堤弁護士
享年33歳
実は
彼の「赤ちゃん」の名前は
坂本龍彦君

坂本龍馬を思い出さざるを得ません。

龍馬
誕生日
死の月日(命日)

同じ
しかも、
坂本さん一家殺害の日
とほとんど同じ

11月15日


ここで少し、私の話をさせてください。
89年11月、
私はソニー株式会社入社内定式を
終わっていました。
私ともう一人、
VTRアートの研究の日本で初めて設けられた
東京大学表徴研究科
初の卒業生4人のうちの1人
K君
とともに
「ソニー株式会社としてはじめて
宣伝部専用戦力
として採用する2人である」
との通知を受け、
K君は、
「ナムジュンパイクと
会いに行かせてもらった」
などと、希望に胸膨らむ日々でした。

時あたかも、
ソニーによるコロンビア映画買収
が9月27日
に完了。

加えて、バブル全盛絶後の日本の
経済力、ハイテク力

そこへきての
日本を舞台の一つとした
『ブラック・レイン』
の大ヒット。

その中で、突然の
11月6日
の訃報
でありました。
松田氏は、

http://www.fanclub.ne.jp/%7Ezai/yusaku.html
のホームページより引用


松田優作は、友人に連れられ、武蔵野市緑町の西窪病院を訪れた。
昭和六十三年九月二十七日午後七時過ぎのことであった。
美容院の泌尿器科では、副院長の山藤政夫医師ら四人の医師の手で患者の手術が行われていた。
優作への対応は、若い医師があたった。
優作は、顔をしかめ、訴えた。

「おしっこが、出ねぇんだ」

(中略)

レントゲン写真も出来上がってきた。
山藤医師は、その写真を見て驚いた。
優作の右の腎臓は、幼い頃の結核の濃厚感染で潰れていた。結核菌が腎臓の中に入り、腎臓結核にに冒されたのである。
機能しているのは、左側の腎臓ひとつであった。
腎臓のことは優作も知っていた。血尿の原因は、その腎臓のせいだと思いこんでいた。

長い間、血尿を手なづけてきたという。

もし一番最初に膀胱炎症状が出たときに、治療にかかっていれば癌も早期発見ができたかも知れなかった。
あるいは血尿が出たときに、しかも見た目だけでなく顕微鏡で見て血尿だと分かったときに、きちんと検査を行っていれば
早期発見ができたかもしれない。
優作が西荻窪病院に入院して二日目、山藤医師は、優作に癌告知する事を決心した。
 山藤医師は誰に対しても告知するわけではなかった。相手の精神が強靱で、意志や気力が強いと確信が出来た場合に限っていた。
 山藤医師は、映画もテレビもあまり見ない方であった。看護婦から「俳優の松田優作さんですよ」といわれても、どういう人物なのか分からなかった。が、山藤医師は、優作と初めて対面した瞬間から感じていた。
 隙のないほど鍛え込まれている体は、己に対する厳しさの積み重ねであろう。仕事に対するプロ意識の具現であろう。
 すさまじい修羅場を経験してきた男の持つ翳りのようなものも感じさせる。

 藤医師は、迷うことなく決めた。

<この人なら、すべて正直に話しても病気と闘っていけるはずだ>

病気は、結局は、本人が治すものだ。医師はそれを手助けするに過ぎない。

山藤医師は、優作にレントゲン写真を見せながら、病気の説明をした。

「優作さん、あなたの右側の腎臓は、結核ですべて潰れています。いままで左側の腎臓だけで生きてきたんですよ。
出血している原因は、おそらく悪性腫瘍かも知れません。悪性腫瘍というのは、優作さんならおわかりになるように、『癌』です。
でも、ちゃんと検査してから、癌なら癌とはっきりお話ししましょう。いろいろな検査をした後で、確実なものを申し上げますよ。」

優作は、じっと耳を傾けていた。
山藤医師の話を聞き終えると、静かな口調で言った。

「先生、たとえどんな病気でも、正直に俺に言ってください。でも、周りにだけはけっしていわんでください。女房にも、いわんでください」

山藤医師は、その返事を聞き、優作はすべて察知してくれたな、と思った。

優作に答えた。

「わかった。約束しよう」

山藤医師は、優作の気持ちが分かる気がした。

<わたしも、同じ事を言うだろう。妻や子供には、苦しい思いをさせたくない。自分自身と、信頼する医師の二人だけで苦しめばいいのだ>

入院中、優作は何度も山藤医師に言った。

「病気だからといって、周りの人間にかばってもらったりするのは、嫌なんだ。みじめな姿は見せたくない。」

ベットの上に横たわっていても、優作の気持ちは停滞しなかった。次の仕事に賭けていた。
優作は、山藤医師に訴えた。

「病気を一年間、抑えられないだろうか。俺は今、『ブラック・レイン』という映画に入っている。アメリカ映画だ。俺が、ずっと希望していた仕事なんだ。」

山藤医師は二つの選択から結論を迫られた。

ひとつめの選択は『ブラック・レイン』の出演をやめさせ、手術することであった。
手術をして、膀胱を取る。代わりに腰の横に人工膀胱をつけて、尿を排出する。たとえ『ブラック・レイン』に出演できなくなり、役者として将来が無くなっても、彼なら別の生き方を切り拓いていけるはずだ。
本来なら、優作には手術が必要なところである。膀胱を摘出しなければいけない。他に癌が転移していたら、骨盤の中の臓器もとらなければいけない。
山藤医師はそう考え、大学病院への転院も勧めてみた。
抗ガン剤使用の必要も説いた。
もうひとつの選択は、命の代償に、彼の希望をかなえてやることであった。

山藤医師は、優作と話し合った。
優作は訴えた。
「今度の仕事は、俺がやっと出会えた仕事なんだ。男が一生に一度出会えるかどうかの、どうしてもやりたい仕事なんだ。
これをやっている間だけでも、抑えてほしい。」

山藤医師は、優作の仕事に賭ける情熱に動かされた。後者の道を選ぶことで結論を出した。ひとつめの選択を選び、たとえ手術を行っても、命が二年もつかどうかわからない。
優作と山藤医師には、仕事というものに対する共通の考え方もあった。それは、自分のすべてを賭けられると思ったものに出会えたときは、何をおいてもやるべきだ。情熱を賭けられる対象には一生の間に何度も出会えるものではない。
優作は、仕事のために、手術も、副作用の考えられる抗ガン剤の使用も拒否した。

山藤医師は、優作に言った。

「あなたはまず、情熱を賭けるものを、何より先に完成して下さい。わたしも、あなたと共に病気と闘っていきますから。」

優作は、微笑んだ。
山藤医師は、わずかな間に、優作との間に奇妙な信頼感が生まれているのを感じた。

入院してまもなく、山藤医師は、美由紀夫人にも病気の説明をした。

「ご主人は、右側の腎臓が結核です。膀胱の中には、炎症があります。とりあえず、その炎症を抑えなければいけない。それには、時間がかかる。
炎症がおさまり、膀胱に機械を入れてみないと、今の段階では何とも言えない。でも手術と言うほどのものではない。
とにかく血を止めて、通院して、そのたび膀胱を洗いましょう。」

山藤医師は、優作との約束を守った。美由紀夫人には、癌であることは、ついに告げなかった。もちろん、残された命が幾日である。
などと言うなど言うわけはなかった。

美由紀夫人は、しっかりしていた。

「無理してますからね。」

とだけ言い、顔に感情を出すようなことはなかった。
入院してから十日後、優作を見送りながら、おのれに言い聞かせた。

<病気が進行するのが分かっていながら、手術も何もしなかったら、後で周囲からわたしへの非難が来るだろう。外からの雑音などわたしは気にしない。が、いずれにしろ、覚悟が必要だ。彼と一緒に病気と闘っていくという、決意と覚悟だ。彼にとっても、わたしにとっても、これからが、すべてのはじまりだ・・・・。>

優作は、西窪病院を退院後、『ブラック・レイン』の仕事に入った。
優作は月に何度か山藤医師のもとを訪れた。
山藤医師は、来院の度に膀胱の中を診て、病気の状況を説明した。
膀胱に抗ガン剤を注入し、服用薬を渡した。副作用が無く体力に関係のない抗ガン剤であった。

優作は、診察が終わるたびに訊いてきた。

「これから先、無理はしていいか?」

不思議だった。優作が仕事に打ち込んでいる間は、癌は進行しなかったのだ。膀胱の中を診ても、コンピュータ断層撮影法で診断しても、状態は変わっていなかった。

山藤医師は、答えた。

「大丈夫だ。」

優作の病と闘うさまを見ながら、山藤医師は、病と気力、あるいは病と精神ということについて考えさせられていた。
人間は、自分の体の中に”気”という免疫を造れるのではないか。

優作は、大阪や、ニューヨークのロケに入ると、電話で山藤医師に容体を報告してきた。

山藤医師は、訊いた。

「元気か?」

「ええ、病気の状態に変化はないが、血尿がつづく。」

山藤医師は言った。

「とにかく『ブラック・レイン』が終わったら、じっくり治療しようや。」

「お願いします。」

優作と山藤医師の会話は、いつも短かった。

『ブラック・レイン』の撮影が終わりに近づいたとき、山藤医師は、優作と食事しながら、死に様について話をした。
山藤医師は言った。

「人間は、生き方も大事だと思う。が、死に様も、ものすごく大事だと思う。」

優作は、言った。

「おれは、自分の死に様なんて、わかりませんね。まだ、考えてもいねえ。」

その後、優作は、下北沢の知っている店に山藤医師を誘い、酒を飲んだ。
山藤医師も、吉祥寺にある自分が知っている寿司屋や赤ちょうちんに、優作を誘った。

ふたりは、病気について話をすることは、一切なかった。いつも、お互いの人生や生き方について話をした。二人とも饒舌ではなかった。
例えば、「人間の心は汚いな」と、どちらかがポツリと言う。どういう風に汚いとか、それをどういう風に受け止め、感じるか、などということはお互いに表現しない。
それでも、心が通じ合える満足感を互いに感じた。


平成元年三月、ついに、『ブラック・レイン』の撮影が終わった。

【ただ「ブラック・レイン」のためだけに】



当時誰も知ることもなく、
その2日前、
坂本一家は
抹殺
されたのでした。

私は今、33歳。
坂本弁護士の死の年と同年です。
同じ京都大学の名前を冠した
不正
に触れるうち
抹消されて
(こんなたとえを許してください。
私のゲラへの突然のストップが
11月17日でした)

坂本氏の
無念
を思いまするに
言葉がありません。

YOSHIKIの父上様
hide
坂本龍馬
坂本 堤様
いずれも享年33歳

坂本都子様
坂本龍彦様
そして
松田優作

各氏へ
合掌

松田龍平君
『御法度』主演
大きく育ってください。
父上のように。

Tears

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