あらゆる作家論に向ってつねに投じられるひとつの問いがある。
おまえの論じている対象の残した全作品の内からたった一つを選ぶなら、おまえは何をとるか?
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むろん、この問いはこたえることの不可能なものだ。
作家の全体像は、かれのすべての表現によって形成されている。
<過程>というモチーフからすれば、ひとつの作品は決しで単独で出現するわけではない。
しかし、この問いが衝迫力をもっていることも事実である。
そこには、論考の核心をみきわめたいという、やや性急な欲求がこめられているからだ。
賢治論もようやく終章をむかえようとするいま、ぼくは敢えてこの問いにこたえたい。賢治の残した全表現の中から、ただひとつ、といわれれば、ぼくは〔雨ニモマケズ〕をとる。
批評をなすものは対象との格闘を通しておのれもたえず試みを受けている。それは、賢治のような表現者について考えるときいっそう言いうることだ。
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〔雨ニモマケズ〕はこうした賢治論の試みの石である。
「無聲働哭」詩篇や「銀河鉄道の夜」を評価することはだれにでもできる。またそのかぎり正当である。
だが、もし賢治の全体像とのかかわりにおいて「ただひとつ」を選ぶとすれば、〔雨ニモマケズ〕しかないとぼくには思える。
周知のように、〔雨ニモマケズ〕は、賢治の死後発見された手帳に記されている。冒頭には「11・3」(昭和六年と推定)の日付がある。
さきに書いたように、このとき賢治は、東京で発熱したあと帰花(九月二十八日)し、ずっと病いの床に臥っていた。
十月二十九日、「疾すでに冶するに近し」と感じ、「法を先とし/父母を次とし/近緑を三とし/農村を最后の目標として/只猛進せよ」というメモを書いた。
十一月一日には、鈴木東蔵の病状問合せに対し、家人代筆で「未ダ臥床中ニ侯ヘ共病勢日々退却之模様ニ侯間快復ノ日モ遠カラズト披存侯」と書き送った。
〔雨ニモマケズ〕はこの二日後、誰に知られるともなく書かれたのである。 |
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