神戸が舞台の物語

間違いだらけの少年H
膨大な一次資料は単なる批判超える
まず挑発的な書名に驚く。次に本の厚さに驚く。八百四十五頁、暑さ四・五センチである。しかし多くの読者にとって最大の驚きは、感動の書として話題になったあの大ベストセラー「少年H 」を、なぜあえて批判しなければならないのか、であろう。
本書はその疑問にこたえることから始まる。史実誤認の多さに困惑したこと。児童文学賞の選考委員などにも違和感を抱いていた人が少なからずいたこと。調べてみたら、作者が参照したらしい年表にも誤記があること。「小説」なんだから史実と多少ずれていたっていいじゃないか、二、三年の違いくらい誤差の範囲内だろう、といった予想される反論にこたえて著者はいう。「少年H」は「本当の話」だと作者自身が語り、読者も事実と受けとめた。小中学生をも読者対象とし、学校が推薦し、二百万部近くも売れた。それだけ影響力のある本だからこそ、看過できないのだと・・・。
事実、読み進むにつれ「何でまた・・・」と目を疑いたくなるような誤りが次々と明るみにでる。特に指摘が多いのは時制の曖昧さである。一見些細な逸話でも、昭和十五年と十八年では時局がまるで異なる。誤差でもやはり片づくまい。敵性語のいいかえ、金属回収、召集令状などのトピックに関しても、私たちの認識がいかにいい加減だったことか。この厚さは膨大な一次資料の引用によるもの。これは単なる批判を超えた第一級のノンフィクションといっていい。
「少年H」に疑問を持った読者も本当はいたのではないかと思う。だが、それは報道されず、あのときは識者から学校関係者まで、「右へならえ」で激賞した。反対意見は封殺された、わけではない。なんとなく公言しにくかっただけ。思えばそれも、戦時中の言論状況に似ていなかっただろうか。
自らを茶目っ気たっぷりに「小国民H」と呼ぶ著者のひとり山中恒は、「少年H」の作者と同世代。「ボクラ小国民」シリーズなどで知られる抜群におもしろい児童読み物作家である。「少年H」は最近文庫にもなった。ぜひ本書の併読を進めたい。
戦時下を生きる少年を書いて大ベストセラーとなった「少年H 」(講談社)。その中の間違いを指摘する本が書店に並んでいる。その名もずばり「間違いだらけの少年H」。著者はさぞ意地悪な人に違いないと思いきや、「ぼくがぼくであること」(角川文庫)など、心に残るロングセラーの児童文学作品を書いてきた山中恒さんだった。
■多くの人に感動を引き起こしたあの「少年H」に挑むにあたって、自分を「巨竜に立ち向かうドンキホーテ」と称されました。
あちらはいまや二百万部を超えて売れている本ですからねえ。とはいえ、事実の間違いが多くこのまま子どもに読ませていいのか。子どもの本の作家としての誇りが許さなかったんです。「ボクラ小国民」を書いた山中恒が、戦争の事実をめぐって発言しないのは読者への裏切りではないか、とのおしかりもありました。
■「間違いだらけの少年H」は背景説明も詳細で八百四十五ページもの大著です。膨大な歴史資料を駆使した「ボクラ小国民」の筆者ならではの印象を受けました。一方でこれが楽しいファンタジー作品を書く山中さんと同一人物かと思うと、なんだか不思議な気も・・・。
いまだって、児童文学の山中と、「ボクラ小国民」に山中は別々の人間だと思っている人はたくさんいるはずですよ。(笑い)子どもの本の作家だから、登場する人物の年齢にあわせて、自分はその年頃には何をやっていただろうかと考えるんですね。そうすると、僕の場合は、戦争の記憶抜きには何も語れなくなってしまうわけです。
■それにしても手抜きがないというか「小国民」をつくった社会システムを徹底検証しています。
戦争のことを書いた児童文学には、よい作品もあるのですが、意外に事実誤認が多いんです。事実をゆがめては戦争の実態が伝わらなくなる危険がある。ささいなことにもみえる事実の積み重ねがリアリティーを呼ぶし、全体像を支えていくわけです。記述の間違いを少しでも正していってもらえればと、ボクは、いわばボランティアとして歴史を掘り起こしてきたつもりです。
■そうして集められた歴史資料が書庫に並んでいますが、点数はどのくらいになるのでしょう。
二万点以上にはなるでしょうね。昭和十七年(一九四二年)から二十年までの印刷物はほとんど網羅していると言っていい。定期雑誌、軍事郵便、カタログ、絵はがき、塗り絵、・・・双六もある。
■歴史学者ならそこまでしない。
当時大人は、子どもにどのような形で戦争をかっこよく思わせたかとか、軍人になるように上手にそそのかしたとかがわかる素材ですから。
■ところで敗戦の八月十五日はどこで迎えられましたか。
北海道庁立小樽中学の二年生で、余市へ泊まり込みの勤労作業で、農家に援農に行っていたんです。ばりばりの軍国少年でした。日本が戦争に負けたと知って、びっくり仰天してどうしようか、と思って、監督の先生の指示を受けなくちゃと、余市街道っていう道を走ったんだよ.宿舎にいた先生も反対側から汗だくで走ってきた。「先生どうしたらいいんですか」というと、「軽挙妄動するなよ」って(笑い)。 陛下に申し訳ない。自決しておわびすべきではないかと同級生にいったら、はかやろ、おまえは連合艦隊司令長官か大本営の参謀総長かよって。「たかが援農に来ている中学生が自決もへったくれもあるか。そんなにしたけりゃ、先生が自決するのそ待ってからやれよ」なんて言われてね。
■なぜ児童文学の道に?
子どものころからすごく好きだった。海軍の士官になりたかったし、絵もかきたくってね、戦争の物語をこどもたちに分かりやすく書きたいっていう、そういう願いがあった(笑い)。ばかだねえ、本当に。
■敗戦で価値観ががらりと変わるのを経験しても、文学への思いは変わらなかったわけですか。
変わんなかったねえ。
■ただ、めざしていた「戦争の物語」は変わった。
「民主主義の物語に変わるんです。戦闘的民主主義者になったわけですよ(笑い)。ボクは戦争中には、軍事冒険小説の山中峰太郎や南洋一郎を愛読しているんですよ。だげど戦争が終わったとたんにみんな色あせてしまった。だからボクは時代が変わろうと色あせない物語を書きたいと思った。
■最初の作品はいつ?
学生時代に書いたむので、後に「赤毛のポチ」という長編になるんです。
■早稲田大学時代ですね。
早稲田には「童話会」という児童文学の伝統的サークルがあったんです。浜田広介も、坪田譲治も、小川未明も、みんな早稲田め出身なんです。その後輩たちがつくった集まりで、そこからは若手が続々と輩出したんです。
■芸術科でしたよね。
自分で授業料を払うという条件でおやじに入学を許可され、早稲田の二部(夜間)に入ることにした。童話会が目的だから、ともかく受験の競争率が低いのはどこかと探したら、第二文学部の芸術料だったんだよ(笑い)。
■「とんでろじいちゃん」が、映画「あの、夏の日」になって八月に上映されました。老人が時空を飛び越え、少年時代の真実にたどりつくというストーリーですが、おじいちゃんが空を飛んじゃう、という発想はどこからですか。
ボクら子どものころって、結構空を飛ぶ夢を見ているんだよな、ハハハ。実際にに夢の中では飛んでいるわけだよね。だから、空飛ぶじいちゃんがいても不思議はない。まして越中ふんどしして空を飛ぶなんて、かっこいいと思っちゃうんだよね(笑い)。
■ご自身のいまの願望でもある?
いや、ボクはねえ、あえて願望といえばね、死ぬときにね、あ、オレやりたいことみんなやらしてもらってほんとに幸せだった、ありがとうよって死ねたらいいだろうと思うんだよね。
だから、あのおじいちゃんはそうやって心地よく死んでいくために、たった一つ心残りがあったわけですよ。その心残りは何だろうっていうことですよね。それは、当時の少年の目で見なけりゃ分かんなかった。だから、孫の手を借りてそいつを解決する。
■小学五年生になる我が子に夏休みに読ませたら、ほんとに面白がって読んでました。宿題の感想文となると五行も書きませんが・・・。
本を読むという観念は大人と子どもで違うんです。子どもは楽しみたいと思っているのに、大人は楽しませない。学習として本を読ませちゃうんだよ。大人はつまんなきゃ途中で投げ出すのに、最後まで読め、なんてこというしさ。
■じゃあ、おもしろかったら、おもしろかっただけでもいいんですね。
いいのよ。それ以上は言う必要はないんです。もし欲張るんならん、「ぼくもこの(主人公の)悠太みたいにね、空を飛べたらいいなっ」「空を飛べるおじいちゃんと話ができたらいいな」っていうふうに書いたら、これはもう、最高の感想ですよ。深く考えることを求めなくていいんです。本を読んで平和主義になるようなら、本を読んで軍国主義になる危険を同時に持っているんですよ。
■でも本の影響力は実際にある。
だから大きくなったときにそれに対して自由な判断が出来るように、いろんな考え方があるんだなってことを学んでほしいってことです。一つの人生だけじゃないよ。こういう人の人生もあれば、ああいう人の人生もあるよ。 こんなバカなこともあれば、こんなまじめなこともあるよ。いろんなことが物語に仮託されてさあ、書かれているじゃない。何もオレの本だけ読めとは言わないんだよ。ただオレの本はおもしろいよって言い方はするけどね(笑い)
日本の出版界を『少年H』(妹尾河童・講談社・毎日新聞文化省特別賞)という化け物が闊歩している。すでに東京と大阪で舞台化され、さらに「フジテレビ開局四十周年記念」と銘打ってドラマ化された。出版直後の平成九年二月十一日、朝日新聞の「天声人語」が同書を「少年の見たまま、聞いたままが織りなされる」、「まさに事実は小説より奇なり」と絶賛。二百万部突破という驚異的な売り上げに貢献した。妹尾氏は出版当初、「実際に見たこと、聞いたこと、感じたことだけに徹し、それ以外は書かないようにしようと決めた。つまり後で知ったことは書かないで、あくまであの時代の少年の目線にこだわることにした」と述べていた(「文藝春秋」平成九年四月号)
そのため、本来”私小説”とでも分類されるべきこの『少年H』は”あの時代”を語る「事実」として一人歩きを始め、「天皇」や「日本の軍部」が戦争の全責任者であったかのような薄っぺらな歴史感を広める役割を演じた。
だが今年五月、この虚構は破綻した。山中垣・山中典子共著『間違いだらけの少年H』は「参考資料として使用した年表」を「そっくりそのまま書き写し、それに見合うようにエピソードをはめ込んだ」ことが暴露されたのである。
膨大な指弾を受けた妹尾氏は「指摘で納得できないものもありました」との留保付きながら、「『確かに間違っていました』と素直に認めさせていただきます」、「版を重ねるとき、間違いを訂正させて頂くことにします」と弁明した(「週刊新潮」六月十七日号)。
そして『少年H』はどうなったのか。
「文庫版を見るとあきれたことに(中略)判明しただけでなんと129箇所もの記述が訂正されている」。「単行本で10月のエピソードが文庫本で7月に、元旦が紀元節にコロッと変わり、父親の身長まで縮んでいる」。「大人も新聞もウソつきや!そう何度も繰り返した少年H、しかし一番のウソつきは当の少年Hだったのである」(小林よしのり「新ゴーマニズム宣言第一○章」「サピオ」九月八日号)。
しかも、先の殊勝な弁明とは裏腹に、読者への説明は一切なく、指摘を受けた「上巻」を中心に字数行数に大変更を及ぼさない範囲での訂正だ。昭和三十年に公表された事柄を、なぜ須磨にいた「少年H」の家族や隣人が知っていたのかとの根本的な疑念は解決されていない。にもかかわらず、同書は手放しで絶賛されてきた。
「これを読んで、あの戦争について、はじめて等身大の理解ができたような気がしています」など、朝日新聞(平成九年終戦記念日社説)はもとより、知識人や文化人の”仲間褒め”も目についた。「はじめて形象化されたあの時代の『意味』」、「今まで誰も書かなかった貴重な『時代への証言』」等々、最大限の賛辞が寄せられたのである。
ある文化人は「あんな変な、人でなしの時代がいつかまたやって来ないでもないし、あのようなひどい標語を二度と招き寄せないためにも、この本はうんと読まれるのがいいのです」との賛辞の中で、「ひどい標語」すなわち戦時標語について「政府のお達しに近く(中略)国家からの指令のようなもの」と呼んでいる。しかし彼が例示した「撃ちてし止まむ」も「欲しがりません勝までは」も朝日新聞が大政翼賛会と協賛して募集した標語である。これらを紙面で連載し、日劇の壁面に掲示したのは「国家」ではない。朝日新聞である。右を代表とする『少年H』によせられた文化人のオマージュこそ、歪められた歴史認識が横行する”いま”を物語る「貴重な時代への証言」ではなかろうか。
ここでは下巻に記された重大な問題点を一つ指摘する。
「少年H」は占領軍が「日本人に、植え付けようとしていたのは、『デモクラシー』の精神であった」と語る。「GHQの検閲は、どこが間違っているかを指摘しているから、厳しくても明快であった」、「同じ検閲でも、日本の軍部の検閲とは違うんだなあと感じた」というのだ。これは正反対である。
確かに戦前日本にも検閲があった。だが少なくとも昭和十三年までは事後検閲であり「日本の出版物があちこちで虫食いのような状態や×印だらけになっていた。つまり読者は、官憲が何を削除したか分かった」のだ(小室直樹『日本国民に告ぐ』)。ところが戦後、GHQは巧妙な事前検閲をもって「日本の言論機関に対する転向」を強制した。それはまさに『閉ざされた言語空間』(江藤淳)だった。
近代デモクラシーは絶対王政への抵抗から生まれた。その根幹こそ表現の自由に他ならない。GHQが戦後日本に植え付けたのは「デモクラシーの精神」ではない。戦勝国のプロパガンダ歴史観である。『少年H』はGHQが「これが真相だ」と捏造した歴史観に見事なまでに貫かれている。
普段は出版のモラルを厳しく問う新聞も、『少年H』の訂正問題には頬被りを決め込んだようだ。本書はすでに全国的な規模で中高生の課題図書に選定されている。かくして、「閉ざされた言語空間」のもとGHQ欽定史観は、再び、日本国民の脳裏に刻み込まれていくのである。
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しかしこの少年H批判記事が同時期の
サンデー毎日に登場。
筆者が
「毎日新聞どうなっとんのや責任者出てこい」
と電話
責任者の回答は
「大きい会社なので
そういうことはある」
と北村肇編集長。
奇しくも上の
『責任者出てこい』
の担当編集
少年Hは肇少年。 |
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